先日、小泉堯史監督「博士の愛した数式」を観ました。
ある夕刊紙にこの映画の主人公である博士を演じている寺尾聰さんが、「単に多くの人に受ける作品であるより、
もっと言葉で伝えられない何かを大切にして演じていきたい」と語っていたことが私の心に留まりました。
「言葉で伝えられない何か」
それはどこで、どのように感じ取れるものなのでしょうか。
この映画を観て「ああそうなのか」と、閃くことがありました。
交通事故の後遺症で80分しか記憶を維持できない数学者の主人公。彼にとって、「今語る言葉」はあと数時間も経たないうちに忘れてしまうもの。
故に、「何を人と語ればいいのか」と「今語る言葉」は自分でさえ怖いものになっています。 ただ、事故以前の記憶はあるので、彼の得意とする数学(数字)は自由に使える言葉のようなものでした。
その数字を使って、彼は新しく家に来た家政婦さんと会話をします。
一方、家政婦さんにとって、数字は毎日の買物の値段や、カレンダーの日付くらいの存在。
ましてや数学は遠い存在で、特別の意味があったわけではないのでしょう。
それでも博士が数字の話を始めると、彼女は彼の語ることに何のためらいもなく、同じリズムで、彼の世界に入っていきます。
私には博士に対する彼女の自然な姿が、とても心地よく感じました。
「数字は無味乾燥のもので言葉が持つほどに豊かさはないのでは?」
こう言ってしまったら数学を愛する人に怒られそうですが、いや、でも違っていました。 数字そのものというより、それを使う人(映画の中の博士)がどれほどその数字を大切にしているか、
そしてその心が相手(家政婦さん)に伝わって、そこではじめて二人の間の共通言語として数字が大きな存在になった。 そのことが大切なのです。
「言葉で伝えられない何か」その言葉に代わりうるものは沢山あります。 例えば、絵、音(音楽)、または会話をしている時はお互いの表情、手振り身振り、声の高低や話し方など…。
ですがこの映画を観て、「言葉の代用物」が何かを伝えているのではないと思いました。
映画では確かに数字が大きい役割を果たしていましたが、それが違うものであっても、「言葉の代用物」を使う人の世界に、それを共有しようとする相手が、自分をひとまず脇において、素になって入っていくことができれば、そこに同じ波長が生まれるのではないのでしょうか。
お互いが同じ場に身を置くことで、言葉を補って、あるいは豊かにしているものがそこに生まれることに気付きました。
カウンセリングの場で、しばしばカップルのお話を聴かせていただくことがあります。どこでボタンの掛け違いが生まれたのか、お二人の距離が離れていく。
それは、お互いに共通言語で話していると思っていても、実は自分にしか通じない言葉で伝えているのかもしれません。日本語だから通じている、相手が分からないのは相手がおかしい。
でも、もしかしたら、自分の言葉にだけ敏感になって、相手の言葉が流れていっているのかもしれません。
博士のように数字を使って会話しましょうとは言えないのですが、例えばどちらかが大切にしている世界に、「とりあえずは入ってみようか」という気持ちを持てたらいいかなと思います。
同じ場に居ることが少しでもできると、「言葉で伝えられない何か」を体で感じ取れる。そんな経験は素敵だなと思います。
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